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2014年12月号 【127】

 囲碁の名人戦七番勝負第四局。各人の持ち時間8時間のうち、序盤から挑戦者の河野臨九段が1時間22分、井山裕太名人が1時間32分と、一手に時間を要した。トータル2日かけて、途中寝食をとりながら行われるものだが、終局時には、それぞれの持ち時間1、2分程度になり、最後の方は、いわゆる秒読みの状態になった。正直、囲碁のことは全くわからないし、なのに以前から囲碁や将棋の最高峰の戦いを報じる記事に目が行くというおかしな嗜癖があるのだが、今回の長考を報じるレポートを読んでいて、どうして惹かれてしまうのか、少しわかったような気がした。

 文字通り様々な戦いの局面を経て、今、ここにいる二人の棋士にとって、その脳内ではものすごい質量のシミュレーションや、今までにない、相手の読みを容易に行わせないような新しい一手を放つことに全精力が傾けられている筈だ。しかも、そうした作業を、相手の一手が置かれるごとに、場合によっては微調整していかないといけない。そんな風に考えていくと、頂上決戦であり、2日制という潤沢な一局への時間が要されているようにみえる名人戦レベルでも、持ち時間8時間というのが果たして妥当な時間なのか、素人ながら首を傾げたくなってくる。

 囲碁と小説の脳内運動のようなものを同じ場所に置いて考えるのは、少し乱暴なような気がするが、小説の執筆だったら、ある程度問題になる場所に立ち返って書き直したり、それこそ次の一文(書き出しの一文でもよい)に、とてつもない時間を要したりする場合もある。かように、何かを考えたりしている時間というものは、六十進法で安易に区切ってしまうことが難しいものであり、ある意味で時間というものから自由であることが必然のもののように思われる。実際、小説を読む側にも、当然、そこに時間の制約はなく、長かろうが、短かろうが、どれだけ時間をかけてもよいし、なんだったら、何回でも読んで、自分なりに血肉化していってもよいのである。囲碁の場合、対局に二人を要し、ルールや制約があって初めて成り立つものである。持ち時間を設けることも勿論ルールとして厳然としてある、といわれればごもっともだが、なにかわりきれない、不憫なような感情を、真剣勝負を盤上で行っている人に対して感じてしまう。

( II )

2014年11月号 【126】

 中日ドラゴンズの投手・山本昌が49歳で現役投手の最年長勝利投手の記録を更新したことは記憶に新しい。プロ野球選手として、もちろん現役最高齢であり、自分の息子世代の選手たちと日々闘いつづけている。そこまでのベテランになってさえ、いまや唯一といえる武器である球のキレの精度を保つため、投球フォームの修正に明け暮れる毎日だという。いわば、自分の型(スタイル)といってもよいはずの、投球フォームをストイックに調整しつづける映像をテレビで見たのだが、軽くショックを受けた。ふつうに考えると、長年、同じ作業に取り組み続けるうちに、おのずと型のようなものが出来上がり、それは年輪が刻まれていくように確固としたものとして血肉化されていくように思うのだが、野球選手の場合は、まったく異なるようだ。逆に、状況に応じて、意図的にフォームを少しずつ変えたり、試行錯誤を延々と繰り返しながらでないと、プロの世界ではとうていやっていけないのだという。それは、日々の細かな状態の差異レベルでも起こってしまう、非常にデリケートなもののようだ。

 しかしながら、それは、人間がやっているのだから、ある意味、当たり前のことのような気も一方ではする。作家の方々に話を聞いていても、今日は調子が悪くて原稿がはかどらなかったとか、その逆に原稿が進んだ、といった話をよく耳にする。つまるところ、何百枚、場合によっては千枚を超えるような原稿は、当然一日で書けるものではないし、日々の微弱な好不調の波をかいくぐって世に生まれ出てくるものだということに改めて気付かされる。作品全体で、ひとつのものとして読者の前にポンと提示されるだけに、一見そのようなものとして思われがちだが、いくら推敲を重ねて最終的に完成形にいたるにしても、その作業自体も、常に一定であり続けるはずのものともいえず、どこまでも偶発性を排除できない、その背景にいろんな書き手の事情や周辺状況、気分その他があって初めて出来上がる「生なモノ」なのだということが出来る。それなのに、そうして一度出来上がってしまった「作品」はそれ以上でも以下でもなく、作り手の舞台裏の様々などまったく気配すら漂っていなかったりするから、なおのこと不思議である。というより、そんな風に、作家側の様々な創作過程がまったく見えてこないものこそ、プロフェッショナルなものともいえる。

( II )

2014年10月号 【125】

 最初に断っておくが、今回書く内容は、完全なノロケ話のようなものなので、その点、どうかご寛恕いただきたい。

 さて。

 編集者にとって、いちばんうれしかったりする瞬間ってどんなときなんだろう?

 ふだんあんまり考えたりしないが、こんな質問をいつもまったく小説など読んでいない若い世代の人に訊かれて、思わずことばにつまってしまった。

 担当している本が売れたり、売れなくても、すごくいい本ができたり、憧れの作家さんとゲラ上でやりとりできる日がやってきたり、本が出てずいぶん経ってから、あの本、よかったですよ、と思わぬ人から言われたり、とてつもなく長い時間がかかって、やっと見本が出来上がった夜に、その本を前に著者とささやかな打ち上げをしたり。

 たしかに、そのいずれも、自己満足スレスレかもしれない「あー、編集やっててよかった」という感懐に満ち溢れているように思う。

 思いつく限り列挙してみて今更ながらに思ったのだが、こうしたことで充足した思いに酩酊できる、ある意味幸せな、感動屋さんでないと、もしかしたら務まらない仕事なのかもしれない。

 少なくとも、自分は間違いなくそうだ。ほかの同業者に面と向かって聞いたことはないが、もし、そうした気質とはかけ離れた、ある種ルーティンな「仕事」と割り切って編集生活を続けている人がいるとしたら、それはとても不幸なことであり、逆に、よくそんな風にして仕事ができるものだと感心してしまうはずだ。

 こんなことを書いていると、夢見がちな、甘ったれたことをいつまでも抜かしている阿呆だと思う方もいるかもしれないが、そのくらい、ある意味、浮世離れした仕事なんだと思う、この文芸の編集者というものは。

 さて、話が思いっきり脱線してしまったが、冒頭の小説の編集をやっていて、いったい何が面白いのか、的な問いへの、現時点での自分のぶっちぎりの第一位のカタルシスの瞬間は、自分が声をかけてデビューした作家さんが、各社行列して待つほどのことになり、10年間書き続けた節目の作品を、1年以上ほぼこれに没入した挙句、1000枚超えの上下巻として刊行できることを置いてほかにないように思う。

 そんな本が、この10月末に発売される。

( II )

2014年9月号 【124】

 小説を読んでいて、改めて驚いたことがある。

 実家で母親と暮らしていた息子が、長らく住み続けていた家を出て行くシーンだ。玄関に見送りに出た母親に、いつものような感じで、ちょっと出てくるわといった塩梅に玄関ドアを開けようとした息子の脳内に、その瞬間、長い長いモノローグが差し挟まれる。いわく、子供のころ、母親の髪型が変わってしまって泣いたこと、高校の頃に万引きで捕まって、相手に対して泣いて謝る母親の背中が驚くほど小さかったこと、そして、鍵っ子だったためか、きちんと「行ってきます」を言ったことがなかったこと。物語の終盤、ほとんどきちんと描かれてこなかった母親の存在が、俄然クローズ・アップされ、文字通り、走馬燈のように延々数ページにわたって母との来し方が回想されていく。そこでようやくハッとなった息子は、母親にきちんと顔を向けて、こういうのだ。行ってきます、と。

 このシーンは、小説で読めば、なるほどなあ、と違和感なく読めてしまうのかもしれないが、現実生活では、おそらく玄関ドアをあけようとする際に胸中をよぎった瞬間のような時間でしかないはずであり、これだけの容量の事項を回想することは物理的には不可能なはずだ。

 それでも、意識野にここまでのエピソードを連続して召還させていかなくても、言葉にできない堆積した思いのようなものは、現実の場面でも、実感としてあったりもする。あえて言い切ってしまうと、きちんと言葉にするほど、小説的な流れになるし、言葉にしなければ、現実の場面に沿う流れの形になる。こうして考えてみると、言葉が追いつかない速さで、瞬間瞬間、私たちはハイ・スピードな判断を繰り返し行っていることがわかる。サッカーで優れた選手は、自分をフィールド上の高い場所から俯瞰しながら、どこにパスを出せばよいのか瞬時に様々なシミュレーションをしているというし、将棋の棋士も、同じように言葉がまったく追いつかない速度で何十手も先の手まで読んだり、様々な検証を試みたりしていると聞く。

 小説をゆっくりとしか読めない自分に常々首を傾げ続けていたのだが、おそらく、小説を読む際の脳の働きは、日常の物事の処理の仕方とは異なるものであるはずだし、つまりは、言葉に翻訳することで、それだけ迂遠なやりとりをしていかなければならないのだろう、と長年の霧が晴れる思いで感じ入ってしまった。

( II )

2014年8月号 【123】

 先月、このコラムで、「小説を書いてみようと思っている」などと、偉そうなことを口走ってしまったことで、けっこういろんな方々から「小説書くらしいじゃん」などと声をかけられてしまい、本欄を読んでいる方が意想外に多くて吃驚してしまった。

 あんなことを書いた後にあえていわせてもらうと、実は、ここの文章を毎月書き続けることにたいへん難渋している。だいたい1000字程度の文章なのだが、白状すると月の半分くらいは、「さて次は何を書こうか」と気が付けば頭の片隅で考えていたりする。

 とにかく書き始めるまでが大変だ。

 毎月、何を書いていいのかわからない。

 たいへんストレスフルな作業だ。

こうして、一行ごとに改行したりして字数を稼いだりしているありさまだ。

 自分がたったこれだけのことで苦しんでいる一方で、作家の人たちは、とてつもない質量の文章を、毎月書き続けている。

 正直、頭が下がる。

 よい子は決して真似をしてはいけない、という昭和な特撮ヒーローものプログラムで流れる常套句を思い浮かべてしまうありさまだ。

 作家の人たちのとんでもなくネバー・エンディングでロング・アンド・ワインディングに続いていく文章の道のほんのさきっちょあたりで、すでに畏怖の念を抱いている自分を毎月再発見し続けている。

 いざ何かを書くことが決まったあとも、ことはそう簡単には進んでくれない。おそらく、ほとんど息を止めるようにして、自分なりの全速ダッシュで脳内40度くらいの傾斜角度の急峻な坂道を昇っていくような感じに近い。

 それでも、そんなふがいない自分に自ら鞭を打ちたい、という思いから、前回のようなことをハッタリかまして書いてみた嫌いはあったものの、あまりにもハードルを上げすぎてしまったことに即座に気付き、その反省から、せめて、と思い、今回やってみたのが、この「なんにもテーマを考えずに書いてみた」である。

 こうして書いてみて改めてわかったこと。それは、何かを書こうということと、何かを書かざるを得ないことはまったく違うということであり、後者の気持ちが芽生えるまでは、自分をどんなに追い込んでみても無様な塗り絵のようなものしかうまれない。

( II )

2014年7月号 【122】

 永六輔さんが作詞された曲のタイトルは、冒頭の一行目と同じことが比較的多い、という話を聞いて、半信半疑で調べてみたら、有名な曲ほど、その傾向が確かに強いことがわかった。

「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「見上げてごらん夜の星を」といったいずれ劣らぬどメジャー曲が顔を連ねている。これは、サビから曲が始まっていることとも関連しているような気がするが、曲のメッセージがシンプルかつ強烈にガツンと伝わってくるので、なるほどなあと変なところで感心してしまう。

 しかし、ざっと思いつくだけでも、ビートルズにも「Can't Buy Me Love 」「Hey Jude」「Yesterday」などがあったり、全盛期の頃の小室哲哉にも「恋しさとせつなさと心強さと」とか「CAN YOU CELEBRATE ?」があったりと、こうしたパターンのものには枚挙に暇がない。なるほど、こうなってくると、ヒット曲足りうる定型のひとつとでも呼びたくなってくる。そして小説でも、ある作家さんが書き出しの一行目に書いていたことばを、未定のままだった本のタイトルに持ってきて、その後、タイトルとともに、作品が大変な評判をとったという話を聞いたことがある(ちなみに、この作家さんは、最初の一行をタイトルにしたので、本文の書き出しには使わなかったようだが、確かに、本が出た当時、ちょっと見たことがないような印象的なタイトルだったことを覚えている)。

 なんでこんなことを書いているかというと、一度、小説を実際に書いてみようか、と思い始めているからである。無論、小説など簡単に書けるものではないし、目の前で描き続けることの大変さを日々実感されている書き手の人たちを見ていると、自分が軽はずみにそんなことをしてはいけないような気がして、事実そうしてきた訳だが、一方で、小説を書くという行為に一度でも、ほんのちょっとでも浸ってみてもバチは当たるまい、という気分も抑えきれずあったりする。書いているとき、どんな感じになるのか。そもそも、自分に一体、どんなものを書けるというのか、怖いもの見たさで見てみたい気もする。そう思って、もし、書くとしたら、なんとなく、書き出しの一行はどんな感じにしようか、などと夢想していた矢先だったので、つい、冒頭のトピックに反応してしまったのかもしれない。ちなみにこんなことばかり書いていて、まだ何も書き始めていない。

( II )

2014年6月号 【121】

 知人が急遽数十時間後に手術をすることになり、見舞ったときのことだ。都内の大学病院の集中治療室。そこに、全身を医療機器に繋がれた彼がいた。たいへんな読書家である彼が、帰りがけ、私になにかおもしろい本はないか訊いてきた。確かに、いきなり全身の自由を奪われ、ひたすら“そのとき”を待つ状態というのは、考えるだけでいたたまれない気持ちになる。なにもすることがないと、考えたくもない、あれやこれやの想像に気が向くことにもなるのだろう。場所柄、電波を発する電子機器の利用は禁じられている。せめて、なにか本でも読んで気を紛らわせたい。そう思うのは至極当然である。

 しかし、ここではたと困ってしまう。ひとは、こんなとき、どんな本を読みたいものなんだろう。当然、辛気臭いものは避けるべきだろう。食べ物が出てくるようなものも、基本、点滴のみの状態で過ごしている人には読むのもつらいはずだ。軽く読めて、いろんな意味で後に残らないようなものがいいのだろうか。そんなことを色々と考えていて、結局、選んだのは、新米女性コミック編集者の奮闘振りを描いたお仕事マンガだった。

 再び集中治療室に舞い戻り、近くの書店で購入した目当てのコミックを手渡すことができて、少しは肩の荷が下りたような気もした。が、なんとなく釈然としない思いも同時に生まれてくる。こんなときに、これぞという小説を薦められなかった自分に軽くショックを受けたのだ。

 そんなこんなで手術もなんとか終わり、ようやく一般病棟に移って、再び見舞ったときのことである。術後の状態もよいようで、少しずつ、日常を取り戻そうとしている彼が同じように本を所望してきた。「今まであんまり読んだことがないような小説はないか」と問われ、勝手にこれは前回のリベンジだと思った私は、色々考えた挙句、主人公が全体の三分の一くらいまで出てこない、ノンフィクション仕立てで構成された今話題の海外翻訳ものを渡すことにした。

 こうして二回にわたって、真に本を読みたがっているひとに、なにかを薦めるということをやってみたわけだが、それは決して簡単なことではない、ということと、ある状況において、ひとは干天の慈雨のようにして、本を希求することが今の世の中でもまだ十全に起こりうるのだ、ということに改めて気付かされた出来事だった。

( II )

2014年5月号 【120】

 少し前、というか、昨年末の話で恐縮だが、年末といえば第九を聴く、という日本ならではの妙な風習に自分も乗ってみようかという気になり、N響の第九を聴きに年の瀬のNHKホールに足を運んだ。素晴らしい演奏だったのはもちろんだが、いま、印象に残っているのは、第四楽章になって満を持して始まる男女四人の独唱部分だ。当たり前のことだが、フルオーケストラを向こうに張って己の声をホール内に響かせるのだから、尋常なことではない。四人が四人とも、日常生活では見ることのできないような独特の立ち姿で、その瞬間、まさに楽器にしか見えない感じでそこにいたのだが、その存在感がとにかくハンパなかった。

 この不思議な感覚は、児童合唱の様子をテレビで見ているときにも感じることで、とにかく歌っているときの顔の感じがみんな同じような空気感をまとっていて、失礼ながら何かに取りつかれたかのごとく声を合わせているように見えてしまう。体全体を使って、やはり楽器に変容しているところから来る、日常にはないただならぬ気配をまとっているのだ。

 一心不乱になって、なにかに打ち込んでいるとき、ふだん、見えない表情というか、忘我の感じが顔に表れてくる。顔が表情を自然につくったりするような回路が閉じて、全神経が別のことに費やされる。

 この感覚は、小説をひたすら書き進めている作家さんにも当てはまるのではないだろうか。だとしたら、書き手の人たちはどんな表情で小説を書いているのだろうか。キューブリックの映画『シャイニング』で取りつかれたようにしてタイプライターを打っていたジャック・ニコルソンみたいな感じにもなったりするんだろうか。

 意識的、無意識的に言葉をそのまま発しながら書いている人も少なからずいるという。よく聞く話だが、冷静に考えると、かなり恐ろしい光景ではないだろうか。ぶつぶつと口中でなにかを言いながら、パソコンの画面上から目を離さない小説家たち。自分で書きながら、笑ったり、泣いたりすることもあるという。決してひとには見せられない、そんなある種きわどい表情や仕草を途方もない時間積み重ねて、ようやくひとつの小説は生まれてくる。そんなことを改めて思うと、もう少し襟を正して読まなければ、という気持ちにもなったりする。

( II )

2014年4月号 【119】

 先日、ある天才詐欺師を描いた映画を観たとき、何かが引っ掛かった。主演の俳優が、それまでのイメージを大きく脱却した役作りをしていたりして、吃驚させられる場面も多かったのだが、自分には彼が天才詐欺師に見えなかったのだ。でも、と考える。そもそも天才詐欺師っぽい感じとか、翻って、詐欺師にまつわるリアリティってなんだろう。まず、詐欺師のイメージからして、妙に軽妙で、うさん臭そうな雰囲気がしているような感じ、といったステロタイプもどきしか思い浮かべることができない。要は、詐欺師っぽい感じというときに拠って立つものは、その程度のものであることに気付く。これに、天才がつくと、輪をかけてわからなくなる。というわけで、冒頭の主演の俳優が天才詐欺師っぽく見えない、という自分の根拠は簡単に崩れ去ってしまい、いったい、おまえは何がいいたいんだ、とひとりツッコミを入れる羽目に相成った。

 かように、自分のなかでなんとなくカテゴライズしていた○○らしさ、というのは、だいたい、すべてのものに敷衍していることに気付く。刑事しかり、教師しかり、はては仙人に至るまで、どこかから拝借してきたようなざっくり感満載のもので構成されている。よく、小説を読んでいて、登場人物にリアリティがあるとかないとかといった話になるが、そもそも、それぞれの人物と同じ職業の知り合いもほとんどいなければ、もし、いたとしても、そんな風にこの職業のひとは、みんなこんな感じとばかりに十把一絡げにしてしまうのは安易であり、乱暴なように思える。それでも、ある種のそうした小説を読んでいて、見も知らない世界なのに、物凄い臨場感に手に汗を握ったりしていることは確実にある。結局、そうした場合、ふりかえってみると、登場人物が、それっぽく見えないというか、いい意味で得体の知れないのっぺらぼうな感じの方が引き付けられたりしていることが多いように思う。具体的にいうと、例えば犯罪者っぽく見えない犯罪者とか、要は人間としてその人物にきちんと向き合っている場合といったらよいだろうか。個人的には、そうしたどこが一体詐欺師なんだ?と思わせられるような作風の方が、結局引き寄せられてしまうことに今さらながら気付いてしまい、冒頭の映画で引っ掛かっていた部分も、むしろチャームとして映っていたことに気付くのである。

( II )

2014年3月号 【118】

 なんとなくやってみたかった「編集者あるある」が二つあった。ひとつは、作家先生のところで締切をひたすら待つあれである(各社の担当がタコ部屋のようなところで、たばこをイライラと吹かしながら、持久戦を展開している感じ)。もうひとつは、先生の原稿があがったので、締切ギリギリの明け方の静まり返った街の中をダッシュして会社に向かうイメージのものだ。今となっては、二つとも隔世の感がある。というのも、ずいぶん前から作家の方からの原稿が、ほとんどメールに添付されたテキストデータの形で来るようになったからだ。手書きの原稿をいただき、達筆すぎる文字の判読に手に汗握ったり、イメージとは大きく異なる文字を書かれる作家の方の意外性にふれたり、というようなことも稀になってしまった。

 なんでこんなことを書いて感傷にふけっているかというと、先般、取材でお邪魔したある人気漫画家さんの仕事部屋を見て、衝撃を受けたからだ。そこでは、数人のアシスタントさんに囲まれて、誕生日席に座る先生が、ねじり鉢巻きよろしく眉間に皺を寄せている姿を見ることはできたのだが、手元にはペンも紙もなかった。全員が、Macの画面に向かい、カチカチとマウスを動かしたりしながら絵を仕上げていっている。聞けば、プロはもとより、同人誌の人たちまでも、「コミックスタジオ」(略称コミスタ)というソフトを使うようになったあたりからこうした状況になっているという(液晶タブレットのでかいやつを駆使しているアシさんもいる)。これも「作家さんあるある」のひとつ、スランプで書き損じた紙をくしゃくしゃに丸めてそこらへんに投げつける、というような定番シーンも今では見ることは難しい。

 それでも、その漫画家さんは力強くこう言った。方法論は変化しても、結局、マンパワーで毎週の連載ページ分を死に物狂いで描いていくことになんら違いはない。だから、やっていることはあまり変わっていないはず、と。手書き→ワープロ→PCくらいの方法の変化にとどまっている文字の世界も、当然同じようなことがいえるはずだ。作り手側に根本の変化がない以上、読み手側にも、ドラスティックな変化は起こりえないような気がする。アナログすぎてデジタルが介入できない強固な壁のようなものを逆に希望の光として感じる。

( II )

2014年2月号 【117】

 山口百恵の名曲「プレイバックPart2」(阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲)を、今さらながらじっくり聴く機会があり、こんな歌詞だったんだ、とまずは驚いた。子供の頃、折節に何度も聴いたり、口ずさんだりした歌のはずなのに、細かく歌詞の内容まで追ってみたり、理解したりしていなかったのだ。

 タイトル通り、現在軸で進んでいた歌が、あることをきっかけに過去(昨夜)のことに飛んでいく。1番の歌詞では、有名なサビのフレーズ「馬鹿にしないでよ、そっちのせいよ」が契機となって、過去にジャンプする。交差点で隣の車の運転手がミラーをこすったと騒いでいるので、語り手(歌い手)が怒鳴り返したときの言葉だが、昨晩、彼氏に対して同じ言葉をぶちまけたことを思い起こしているのだ。

 さらに驚くのは、2番の歌詞である。サビのところで、今度は「勝手にしやがれ、出ていくんだろ」というフレーズがカーラジオから流れてくる。これを聴いて、また、語り手は、昨晩のことを思い浮かべる。今度の言葉は、男の方が吐いたものなのだが、1番の歌詞の続きになっているとともに、セリフが男女で対になっている細かさだ。このようなことが立て続けに起こり(もっとも、こういう状況では、割となにがあっても、昨晩のことと結び付けて考えがちになるのかもしれないが)、腹立ちまぎれに真っ赤なポルシェをかっ飛ばしていた女子の方も、そうはいっても、自分は淋しがりやと認めて、最後は彼のところへ「プレイバック」するところで、歌が終わる。わずか3分30秒程度の歌の世界ながら、ちょっとした短編を読まされたような情報量である。小説を読む場合は、ゆっくり立ち止まって読めばよいので、自分なりにコントロールできるが、歌は待ってくれない(字幕の映画でやたら情報量の多いものも同じく)。

 そんな話をある人にしていたら、あの歌は、ほかにもこんな読み方ができると教えてくれた。2番に出てくる「勝手にしやがれ」ということば。カーラジオから流れてきた歌のフレーズという設定だが、これは、沢田研二の歌うあの歌を意識していて、女が出て行く歌である彼の曲のアンサーになっているという。阿久悠作詞の曲がリリースされたのが、「プレイバック〜」の1年前。あまりの芸の細かさに数十年を経て脱帽である。

( II )

2014年1月号 【116】

 深夜、気が付いたら国府津駅のホームにいた。酔って電車を乗り過ごしたパターンだ。確か、新木場駅からりんかい線に乗った。そこから大井町で下車して、東急線に乗り換えて家路に着くはずだった。始発まで仕方なく時間をつぶすことにした私は、終夜営業の駅近くのファミレスに入り、ここまでの経路を考えてみた。大井町をスルーして、その次の大崎で下車、戻るために反対のホームで電車を待ったような気がする。そのあと、なぜかもう一回くらい、そんなことを繰り返した気もする。反対のホームに立てば、もとの駅に戻れると思ったことが間違いだったのかもしれない。大崎の駅のホーム反対側は、埼京線のホームと兼用で、しかも急行みたいなのに乗ってしまい、そのあと、また反対のホームに立っていたら、今度は東海道本線のホームと兼用で、特急に乗ってしまったあたりで、寝落ちしてしまったのかもしれない。

 判然としないまま私は、これから出る本の校正ゲラを取り出した。完徹モードで、受け取ったばかりのゲラを最初から読むことにしたのだ。

 そこで、また一驚してしまう。ゲラが、激しく赤い。要するに、作家さんが、かなりの赤字を入れてきたということなのだが、自分史上いちばん赤いくらい赤い。ページによっては、裏の白紙部分にまで記述が及んでいたりする。しかし、なにより驚いたのが、文字の迫力だ。それを書いた人が、さながら棟方志功のような感じになって、一心不乱に赤入れをしたに違いないような鬼気迫るものがあった。赤字をすべて読み終わる頃には、ファミレスの閉店を告げるアナウンスが流れていた。修正の中身自体も、非の打ちどころがないくらい、首肯すべきものだった。そんなわけで、妙に高揚した気分で、始発電車に乗り込んだ訳だが、この話には、後日談がつく。翌日、当該作家さんから電話があり、ゲラの文字が読みにくかったのではないか、という詫びの内容だった。聞けば、海外への取材旅行中の飛行機のなかで、時間に追われての校正作業をしていたのだが、途中、乱気流に巻き込まれ、それでもペンを離さず、校正をやり通したというのである。この話を聞いたとき、手塚治虫先生が、締切にどうしても間に合わず、ロス行きの飛行機のなかでも作画を続けた逸話を思い出した。当然、自らの体たらくを深く恥じ、翌日からしばらくは自らに酒を禁じたのは、いうまでもない。

( II )

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    蒼のファンファーレ/古内一絵

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    左京区桃栗坂上ル/瀧羽麻子

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    私はいったい、何と闘っているのか/つぶやきシロー

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