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2016年12月号 【151】

フランツ・カフカ賞受賞の中国マジック・リアリズムの雄・閻連科の「愉楽」(谷川毅訳・河出書房新社刊)をやっと読むことができて、鼻血が出そうな凄まじい読書体験の後、巻末の氏の言葉(「二〇〇七年版への序」)に突き当たった。少し長いが引用させていただく。

「私にとって創作とは、すでに楽しいことではなくなっている。三十年近い創作人生で、最近の十数年は、創作の後であろうが創作の過程であろうが、どんな喜びも得ることができないでいる。それなのに一日一日辛抱して書き続けているのは(中略)私がまだこの世界で呼吸して動いていることを証明するためであり、友人や読者と交流し、話をしていることを証明するためでもある。(中略)もしいつの日か書けなくなったら、それは私が死んだということではなく、ただ人と話したり、付き合いたくなくなったということだ。この世界に向かって、自分独自の声を上げたくなくなったということなのだ」

 この項で、ああでもない、こうでもない、と毎号のように作家の方々の脳内を勝手に想像しながら書いてきた身としては、この言葉は、まさに「突き当たった」レベルのものに感じられた。まず、何十年も書いていると、書いていること自体に喜びもないし、よくいわれる「書いている間はしんどいけれど、この世界が終わってほしくない」というような言説にもここでは疑問符が付いている。それは、書き続けることが、ひたすら苦行のようなものとして、書き手に匕首を突き付けている様態であることを感じさせる。そしてそれが終わる日が来るとしたら、どこかにいる読み手に、自作を通して語りかけたくなくなる状態だというのだ。

 書き手は、読み手がいなければ意味がないし、その本は、本として機能しない。至極当たり前のことを書いているようだが、作者は、いつかどこかで誰かがきっと自分の書いたものを読んでくれている、という強い確信がなければ、ひとり荒野を彷徨うようにして書き続ける気力も消え失せてしまう。だが、一方で、読者の灯のようなものがうすらぼんやりとでも感じることができるのであれば、それを励みに書き続けることができるということになる。

 小説において、いかに読者の存在が大きいものなのか。こちら側には決してわからないくらいの存在感をもって、読者は当の書き手のそばに佇んでいるのだろう。


(U)

2016年11月号 【150】

 この夏、たいへんに話題を呼んだあの怪獣映画。まだ観ていない方の興を削いでしまいかねないので、あまり詳しく書くことはできないが、一方的に途轍もなく喫驚してしまったことがひとつあった。

 劇中、あの巨大怪獣が日本に姿を現し、国家レベルでの会議に次ぐ会議が刻一刻執り行われている様が非常に細密に描かれていくのだが、まず対象物Xが何物であるのか特定できない。どうしてもそこから始めざるを得ない(実際、昭和の特撮ヒーローもののように、出現したそれをみて「あ、○○だ!」とは簡単にいうことはできない)。それでも、どうすればこの対象物Xを〈駆除〉できるかを懸命に考え、行動に移し続ける。文字通り死に物狂いで仮説→検証→実行→失敗を繰り返しながらも、本能的な力のようなもので人間総体で事に当たろうとする。この感覚に近いものとして、なぜか、耳なし芳一のことを思い出した。体じゅうに経文を書き記し、魔の物と対峙しようとするかのような、言葉の力強さである(実際、劇中で国家サイドの人間たちが高速で専門用語を繰り出す様は、経文を唱えているようにすら思えてしまう)。対象物Xに名を与え、カテゴライズし、駆除に至る対処法を考え、こちら側の世界に完全に取り込むまで、言葉の武装化のようなものは続く。

 その一方で、あの怪獣が上陸し、自分が住む近所の橋のあたりを通過しようとしたとき、ふと頭を過ぎったことがあった。それは、初冬の早朝、同じ橋のたもとで見た一組のホームレスとカラスの存在だった。寝そべった、身動きひとつしない男性の頭にカラスが止まっている。十秒くらいの時計の針が止まったような時間が流れたあと、彼はゆっくりと右手を持ち上げる。その手の平に慣れた風に着地するカラス。とても親密ななにかが彼らの間には感じられた。なんだか知らないが、ちょっと鳥肌がたった。それと同時に、自分のなかに芽生えた感情になんらかの言葉を与えることを禁じたのも覚えている。よくわからないけれど、すごく美しいものをみたような気がした。理解できないなりに、脳裏に焼き付けておけばそれでじゅうぶんだ。

 ときに、ことばはやっかいな狭窄物になることだってあるのだ。巨大な怪獣が練り歩いているまさにその場所で、かつてそんなことを考えていたことを改めて思い出し、妙に印象に残ってしまった。


(U)

2016年10月号 【149】

 文章を書くのは、たいへん恥ずかしいことだと思う。実際、毎月毎月なぜ、こんなにこの項を書くのに難渋しているのかというと(こうして愚痴めいたことを書くのもお約束のようになってきている)、どう考えても、そのことがいちばん大きな要因になっているように思われてならない。何故恥ずかしいと感じるのかは、ここで書き始めるとちょっと長くなってしまいそうになるので控えるが、独特の羞恥心のようなものがつきまとっていることは間違いない。

 以前にも書いたように思うが、この1000文字程度の長さのものでも、書き始めたら一気呵成に、息継ぎなしで、自分的にはけっこうな長さの距離を泳ぐようにして書いている気がする。そうしないと書けないような、へんな強迫観念すらある(実際、この項を読まれたある奇特な方が、「なんだかいつも切羽詰まっているように書いているね」と感想を伝えてくれたことがあるが、まさにその通りだと思う)。

 自分と同じように考えてしまうのも失礼だし、書いている質も量も全く比較にならないのだが、小説を書いている方々も、同じような「恥ずかしさ」のようなものを場合によっては感じたりしているのだろうか。デビュー作を担当させていただいたある方が、最初の原稿を読んだあとの打ち合わせの際に確かこんな類いのことをいっていた(実際には、もうすこし生々しいというか、下に寄った内容の発言だったが、ここでは自重しておく)。いわく、(編集者である私に)口のなかから手を突っ込まれて、内臓を素手でぐりぐり触られたような感じがした、と。素手で内臓。これ以上に自分のインサイドはないというくらいの奥の奥、というところを乱暴にこねくり回された、ということになる。もう嫁にいけない体になってしまったといわれたも同然である。いや、夫婦や恋人でも、ここまでの感覚はなかなかないのではないだろうか、とも思う。要は、そのくらい恥ずかしかったはずだ。

 ほかにも、酒を少し体のなかに入れないと書けないとか、水中に潜る感じがするとか、作中の登場人物は結局全部自分であるとか、いろいろと小説執筆にまつわるシチュエーションの話はこれまでに聞いてきたように思うが、やはり、どれもこれも、尋常ではないような気がする。

 小説を書くことはある意味、こうした無茶をすることであり、だからこそ、ふと冷静になると恥ずかしくもなったりするのかもしれない。


(U)

2016年9月号 【148】

 困った。ほんとうに情けない話だが、今現在、こうして会社のPCの前に座ったまま、まっさらなワードの画面を延々見ている状態が続いている。毎号のことながら、この項で何を書いてよいのか、なかなかに難渋してしまう(こんな駄文ながらも、五年近くもよく一度も休まずに書き続けてきたものだ! と我ながら自分を褒めてあげたくもなる)。しかし、残念ながら、今回は本当に何も書くことが頭に浮かびそうにない。

 というわけで、困ったときには自分の悪癖でも書いてみるしかない、というどこかで読んだある方の一文を縁に、しばし我が身をふりかえって書いてみることにする。

 まず、けっこうな確率で読んでいる本をなくしてしまう。とくに、分厚い長編で、しばらく鞄のなかで行動をともにするハードカバーなどにこの傾向が強い気がする。つい先日も、約1か月ちびりちびりと読み続けていた600頁を越える、二段組みの翻訳モノの小説をなくしてしまった。別に酔っ払って落とすとか、そういうわかりやすい類いのミスではない。電車に乗っていて、乗り換えの時に落っことして気がつかないままだったり、重いので手提げ袋に入れて網棚に置いているうちになぜか忘れてしまったり、よくわからない理由でなくしてしまう(そして、これも不思議なことなのだが、電車のなかで紛失してしまうと、自分の場合、まず間違いなく戻ってこない。いくら遺失物問い合わせ関係のところに連絡をしても無駄なのだ)。もちろん、お話の中後半のあたりでなくすことが多いためか、また同じ本をもう一度、どうしても可及的速やかに買ってしまうことになる。

 それから、1冊の小説を読んでいる間ずっと、なぜか書いている人のぼんやりとしたイメージがつきまとうという悪癖もある(まるで、車窓からの風景に寄り添い続ける月や太陽のように)。これは濃淡あるものの、著者を実際に知っている、いないにかかわらず起こるものなので、本当に気配のようなものとしかいいようがない。

 あとは、頭を洗っていると、どういうわけか、ある小説のことを思い出してしまう、という意味不明なものもある。ちなみにその小説には、頭を洗うシーンも出てこなければ、風呂に入っている場面すら出てこない。

 こうして悪癖を連ねて思うことは、いつものことながら、私は大丈夫なのか、ということである。


(U)

2016年8月号 【147】

 縷々考えてみると、毎月、自問自答で、ひとり○○質問箱小説編のようなことをやっている感のある本稿だが、今回のお話は、リアルにそこで取り上げられてもおかしくないような内容のものかもしれない。

 最近、というか、ここのところ、本(コミックなども含む)のタイトルをやたらと略しているものが流行っているような気がするが、これはいったい、どうしたことなんだろう。たしかに、略さないとちょっと困るくらい長いタイトルなんかは、まあ、首肯できるものだったりするのだが、そうでもない場合でも、けっこうそうしたことはあるような気がする。五文字くらいの短めのタイトルで、一文字だけマイナスになっただけのものとか、ふと冷静に考えてみると、いったい何が起きているんだろう、と思ってしまうのだ。

 自分のうすらぼんやりとした記憶を辿ってみても、古くは「ベルばら」あたりが最初のような気もするが、それでも、こうした傾向は、ここ十数年くらいで増えてきたような気がする。

 どう間違っても、「はしメロ」とか「わが猫」とか「ヴィヨ妻」とか略すことはありえないし、やはり、そこには違和感しか残らない。

 ということは、別のジャンル、たとえば、ドラマとかゲームとかから、こっち(小説)の方に次第に略称ムーブメントのようなものがやって来ているのだろうか。考えてみれば、連ドラ、という言葉などは、すでにこの段階で略されている。もっというと、コンビニとか、パソコンとか、スマホとか、自分たちの生活全般は、こうした略称で溢れかえっているではないか。

 そんなことをぼんやり思っていたら、ある作家の方から、本来、日本人は略すのが好きなんだという返答をいただいた。氏いわく、さようなら、ということばひとつとってみても、「さようならば、これにて失礼」といったような、あとに続くことばがあって完結するはずのものが、さようならば、という接続詞をさらに略しているという状況下でようやく成立しているものだという。

 そういう意味では、先般、編集の担当をした『サラバ!』という作品も、表題の言葉面だけ捉えれば、「それでは」とか「それならば」といった意味の接続詞がそこだけ残ってしまったパターンであることに気づいて、しばし、略称の呪縛のようなものに、唖然とさせられた。

(U)

2016年7月号 【146】

 またか。

 また、いつものように自分の笑い方が周囲にいるひとのそれと同じ感じになっている。このことに気づいて久しいが、私にはオリジナルの笑い方というものがないような気がする。いつの間にやら、ちょっと特徴的な笑い方をするひとのそれが移ってしまうのだ。まるで風邪でもひくように。

 本来、ひとはみな、クセのような感じで、その人なりの笑い方が出来上がっているように思うのだが、どうしたことか、私にはそれがない。ない、としか思えないくらい、ころころ変わり続けている。

 自分の記憶をさかのぼってみると、昔、交際相手かなにかに、それまで染みついていた自分の笑い方が不快だといわれて、意識的にやめてしまったような気がするが、もうそれもよくわからなくなってしまった。

 最近の笑い方が、今すぐ横にいる人と同じであることに気づいたのは、大相撲五月場所が催されている両国国技館でのことだった。

 大相撲が最近なぜか気になるようになり、初めて実際に観戦する機会を与えられたのに、最初のうちは、こんなことを縷々考えてしまうくらいには気が散っていた。

 二階席の比較的前の方で観ることができたのだが、普段テレビで見ているのとはやはり勝手が違った。立ち合いの瞬間、力士が肉体をぶつけ合う音が、雷鳴のようにコンマ数秒の時差で耳に届くさまや、観覧車を別の角度から見たときのような土俵上の新鮮なアングルに興味を覚えたりもしたが、それも長くはもたなかった。

 なんとなく、残念な感じになりかけていたものの、中入り後、上位陣の力士たちが揃い踏みし始めると、しだいに会場内の熱気のようなものが我が身を圧倒しはじめる。そして、間違いなく、土俵の大きさがどんどん大きくなり、力士もそれにあわせて巨大化していったのだ。なんだこの感覚は、と思ったりもしたのだが、そういえばこの感じは、級数が小さく組みがタイトな昔の小説を読んでいるときにも通じるものがある。最初のうちは、老眼気味であることもあり、読みにくいなあ、などと思い始めながら読んでいるうちに、次第にそんなことは気にならなくなっていく。ここには、慣れとか、没頭するあまり気にならなくなるとか、そうした事以外の何かが作用している気がしてならない。

(U)

2016年6月号 【145】

 ぴーぱっぱっららっぱぁ、ぱっぱぁららっぱ。

 日の暮れかけた細い路地を、自転車に乗ったいがぐり頭の部活帰りの中学生二人組が、妙な節回しの鼻歌を歌いながら勢いよく追い抜いていく。

「たとえば、この瞬間」

 私と並んで歩いていたその作家さんは、野球部と思しき彼らの後ろ姿を目で追いながら話しはじめた。

「小説を書いていて、ここで一時停止をかけたようにしてストップさせて、翌日、また、この場面から再開させることだってよくあることなんだ」

 彼が何の話をしているのかというと、道中、ちょうど小説における時間の流れのような話をしていたからである。確かに、きりのいいところまでチャプター分を書き切って、また次のフェイズに向かうというような都合のよいことばかりやっていられる訳がなく、様々な事由により、へんなところで執筆をちょっと中断したり、書けなくなってしまったり、といったことは起こりうる。しかし、そんな継ぎ目のようなものは、読んでいる側にはまったく知る由もなく、いがぐり頭の中学生二人が、話の途中で自転車に乗ったまま宙づり状態になっていることなど、わかりようもないのである。

 ところで、なぜそんな心細い道を作家の方と歩いているのかというと、私が「温泉と鉄道の旅を近間で手軽に味わえるところはないですかね」などと迂闊な質問をしてしまったからだ。そうした方面には滅法強いその方は、「そんなのはたくさんあるけど」と言いながら、ローカル線の駅に温泉がくっついているところをすぐさま教えてくれた。そうして、ネットで検索するうちに、なぜか、ここを着想にして短編を書いてみよう、という具合に盛り上がっていき、中年男性ふたりで日帰りで、わたらせ渓谷鐡道の水沼という駅に向かう仕儀と相成った。そして発車まで時間が少しあったので当のローカル線の発着駅である桐生駅でいったん降りて、あたり一帯をぶらぶら徘徊していたのである。

 思わぬ自分のひとことから、小説の時間の流れを野球部の中学生の後ろ姿とともに印象に刻むことになった訳だが、いっぽうで、彼らがなぜおよそ生まれる前に大ヒットしたはずの曲を鼻歌で歌っているのか、という大変にどうでもいいことも気がかりとして残ったのだった。

(U)

2016年5月号 【144】

 ふと思い立って、五能線に乗ってきた。青森は五所川原から秋田の能代間、主に日本海の海寄りを延々走る路線である。鉄の血中濃度が高いほうでは決してないが、日本海の冬の海に雪が渺々と降っている様を見に行きたくなってしまったのだ。残念ながら雪は降っておらず、春遠からじといった感じの穏やかな夕刻の海面に残照が刻まれる様を惚けたように眺めていたのだが、途中停車した駅のプレートを見て、喫驚した。そこには、井川さくら、と完全に人の名前としか考えられない駅名が記されていて、しばらくの間、駅名の縁起を色々と妄想していたのだが、つい、という感じで、スマホ検索してしまった。そこには、失礼ながら、ああそうですかとでもいいたくなる駅名の由来が記されていた。安易なネット検索のよろしくない面がここにも出てしまったと思う。地方の駅前の風景が、全国チェーンのお店で均質化されていくこととも自分のなかで勝手に繋がっていく。

 そんな反動もあってか、夜になり、なるべく土地に根ざした感じのお店に入りたくて、昭和感満載の、The がつきそうな、スナックに入る。ご常連ばかりで代わりばんこに繰り広げる演歌やムード歌謡中心の曲選択もよかったが、とくに印象に残ったのが、曲のイントロにあわせてその曲の内容にあわせたナレーション的なものをうまい感じで入れている初老の男性のマイク捌きである。立て板に水、といったレベルの年輪を重ねてきたひとの曲紹介に送られて、自分も一曲歌ってみたが、とても気持ちがよかった。

 翌日、帰りの車中で、都築響一氏の「夜露死苦現代詩」を読んでいたら、ちょうど名司会者で故人の玉置宏さんの曲紹介のお話の章があって、さらにうれしくなった。

「旅に出たのは、何故だと尋かれ、ひとりぼっちは何故だと尋かれ、涙がひとつ答えてる、遠く煌めく灯台だけが、私の恋を知っている、旅に疲れた女がひとり、津軽海峡冬景色、石川さゆりさんです」

 玉置氏は、これらを基本すべて即興で行い、同じ曲でも、曲が歌われる時期、順番、尺の長さなどでさまざまなバリエーションで対応可能だったそうだ。もともと話芸というものは、古来、口伝が基本であり、見て聞いて覚えながら、その襷を繋いできた。そう考えると、北の町の小さなスナックで曲紹介をするかの男性も、今や、貴重な存在といえるのかもしれない。

(U)

2016年4月号 【143】

 少し前になるが、大関の琴奨菊関が初優勝を飾り、琴バウアーと呼ばれるルーティンが話題なった。取組の直前、最後の塩を大きく撒くあたりで、決まって大きく体を反らせるポーズをとるのである。なんとなく気になったので、支度部屋を出た直後くらいから土俵にあがるまで間断なく続くテレビのインサート映像を見ていたら、やはり細々といろんな動作を繰り返していた(ペットボトルの水を少しずつ口に含んだり、吐き出したり、体の一部を動かしたりなんかして、とにかく少しもとどまるところがない。その間に、例の琴バウアーの小さめの感じのやつまでやっているではないか!)。さらにネットなどで調べてみると、場所中は、朝起きたあたりからずっと、細々としたルーティンがほぼ一日じゅう取り入れられているようだった。

 同じような文脈で、ラグビーの五郎丸選手のキックを蹴る前のあの印を結ぶように両手を重ねる様や、イチロー選手が打席のなかでバットを構えるまでの一連の流麗な動作など有名なものが頭に浮かぶが、イチロー氏は、毎朝、決まって同じ味のカレーで一日を始めたり、他にも我々の目につかないところでいろんなルーティンがあることが想像できる。

 作家のひとたちにも、そんなルーティン的なものはあるんだろうか。さっそく、ある方に話を向けてみると、やはりあるという。スペインのチェリスト、パブロ・カザルスが過去80年間、毎朝、バッハの「プレリュードとフーガ」を二曲弾き続けているというエピソードに感化されたのか、やはりバッハの決まった曲をピアノで弾いてから執筆に入るという。小説を書くという行為が、普通に生活しているなかにボコッと入りこんでくるわけだから、やはり、そこへ向かうためのなんらかのギアチェンジのようなものが必要なんだろうかと思うが、氏によると、どちらかというと、朝、神棚に向かって手を合わせるような、ある種のおまじないのような部分が強いという。

 小説の神様に、きょうも一日、お願いします、と手を合わせる。

 ルーティンというと、流れ作業のような決まり切ったものを想像しがちだが、むしろ、いつもと変わらない感じですよー(大丈夫ですよー、こわくないですよー)と自らを弛緩させないとどうにもならないような、どえらいことを彼らがやっていることに、改めて気づかされる。

(U)

2016年3月号 【142】

 小説のタイトルは、いつ、どうやって決まるのか。はっきりいってここで取り上げるには、けっこうな問題を孕んでいそうだが、今回は、ある作家の方のこんな言葉を端緒に、少しだけ話を展開してみようかと思う。

 氏曰く、「迷ったら、いちばんいいのは、主人公の名前をタイトルにつけておけば、まず間違いはない」という考え方だ。

 本来、書き下ろしと連載とでは、タイトルをつけるタイミングも大きく異なってしまう。書き下ろしだったら、最初は仮のタイトルをつけたり、タイトルなしで始めていって、場合によってはお話のエンドマークをつけてから、ようやく考えたり、思いついたりしたってよいわけだ。

 ところが、連載だとそうはいかない。少しずつ書いていくのだから、最初から何かしら作品の中身と合致するようなタイトルが必要になる。そういう意味では、主人公の名前を冠することは、作品の内容から大きく外れることは考えにくい。実際、ここにあげるまでもなく、古今東西、主人公の名前を(一部でも)冠した小説は枚挙にいとまがない。それに、最終的に、書籍化されるときに、そのタイトルから変更する余地も書き手には依然残されている。

 一方で、ひとつのお話を書き始めるときに、タイトルがその中身を大きく規定する、というか、運命づけるという考え方も否定できない。タイトルは作品の命であり、それがきちんと定まらないと連載だろうが書き下ろしだろうが、一文字たりとも先には進められない、というスタンスに立つ作家の方も少なくない。

 そんななかで、やはり度肝を抜かれるのが、漱石の「門」がタイトル決定になるまでの話だ。自ら書き、同時に連載のラインアップも決めていくという、プロ野球でいう選手兼監督みたいな立場であった漱石の、新聞連載開始間際の慌ただしい状況だったとはいえ、このタイトルは弟子の間で決められたという豪快な話が残っている。

 もちろん、同じ書き手でも、作品を書いている時期、周辺状況などでスタンスが変わっていくこともあり得るだろうし、タイトルのことを考え出したら、やはり小説を書くことに関しての、かなり奥深いところまで分け入ってしまうことは避けられない。今後、無題のままの大傑作すら生まれる可能性もあるかもしれない。

(U)

2016年2月号 【141】

 最近、ちょっと病気なのでは? と自分で思ってしまうくらい原稿を人前で読むことができなくなっている気がする。とくに、その原稿が長いものだったり、初見のものだったりする場合など、なおさらその傾向が強いようだ。まわりでひとの話し声がしたり、電話がかかってきたり、話しかけられたりして集中が途切れてしまうというのも、もちろんあるかもしれないが、もう少し生理的なもののような気がする。

 たとえば、人前でごはんを食べたり、同じく口腔部の粘膜を見せたりすることを恥ずかしく思うひと(後者はあまりいないのかもしれないが)と同じような感じで「恥ずかしい」と思ってしまう感じに近い。とにかく、まわりにひとがいない、静かな状態がベストである。でも、周囲がざわざわしていても、電車のなかだったり、喫茶店的なところはあまり支障を来さない。ようは、自分が知っているひとがまわりにいない、匿名性の高い場所だったら、あまり恥ずかしくならないようだ。たとえは違うが、知っているひとがいないはずの温泉とかスーパー銭湯のような場所で、すっぽんぽんで練り歩いていてもぜんぜん恥ずかしく感じないのと似ているのかもしれない(この場合、ど近眼である私は眼鏡を外してしまうため、まわりの風景がぼやけまくっている、というのもあるのかもしれないが)。

 話が少し逸れてしまったが、そもそも「読む」、それも「真剣に読む」という行為自体が、自分のなにかが剥き出しになってしまう感じの、滑稽極まりないものになっていると、強く思い始めていることの証左のような気がする。それは、決してひとさまにお見せできないくらい、間抜けで、辛気臭くて、おっかない感じの気配を出しまくっているに違いないからだ。

 なんで、こんなことを意識し始めたのかというと、ある作家の方と話しているとき、小説を書いているときに自分の顔をふっと鏡で見てしまった瞬間、思わず噴いてしまった、という話を聞いたからだ。ある意味、全身を書くことに供しているわけだから、それは日常生活でまわりの空気を読む感じとか、ひとの顔色を読むとかいうのとはまったく違う感じになっているはずで、顔の表情なんかも無意識の塊というか、本来の対人仕様からおよそ遠く離れているはずである。

 読む方も、書く方ほどではないが、そんな迂闊な感じの気配を出しまくりながらの状態にならざるを得ないのではないだろうか。

(U)

2016年1月号 【140】

 何冊もつい、同じ本を買ってしまう。ここでも書いた話のような気がするが、それでも、最近、もしかしたらそういうことなのかもしれない、と思うことがあったので、少し書いてみることにする。

 すこし前に映画監督の故・ロバート・アルトマンの足跡を追うドキュメンタリー映画を観た。「ナッシュビル」や「ショート・カッツ」など、様々な傑作、問題作を撮りつづけてきた氏が、こんな類いの言葉を口にする。

 ──(撮り始めの)最初の五、六本は、どんなもんだという感じで撮っていた。だけど、次の十何本は、気がつけばさながらひとつの小説の同じ章を、別の角度から書き直し続けているだけのような気がしていた。

 その後、アルトマン監督は、様々な事由によって、べつのフェイズに向かうことになるのだが、監督としての「旅の途中」におけるこの言葉は、作り手としての焦燥感や諦観めいたものを自虐的な笑いにまぶして語っているように思えてしまう。

 だが、よくよく考えてみると、これは、よく作家の方々からきく言葉──結局、書きたいものの大きな塊のようなものはひとつ、もしくはふたつくらいしかなく、その巨大な何かにリーチしたくてぐるぐると回っているだけだ、というあの言葉と同じような意味のことを言っているんだろうか、という気がしてしまう。

 逆にいうと、小説でも、映画でも、そのくらい自分のことを俯瞰してみている自分がいないと立ち行かなくなってしまうのかもしれない。

 でも、ほんとうにそれだけのことなのか、と思ってしまったのが、つい先だって、通算何冊目なのかわからなくなった同じタイトルのある本を買ってしまったときのことだ。

 今までは、ダブル、トリプルで同じ本を自宅の本棚に積み重ねてしまう自分に対して、大丈夫なのかという思いや、あきれ果てる思いを抱くことのみにとどまっていたのだったが、「気がつけば」買ってしまう、というところが肝要な気が次第にしてきたのだ。気がつけば同じタイトルの本を買ってしまったり、気がつけば同じような感じがする映画を撮ってしまったり(これは、もちろん、監督自身にしかわからない感覚なのかもしれないが)というのは、それだけ、自分が気になってしまっている何かなのであり、とても大切なものを含んでいるのかもしれない。

(U)

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